WINCARS KURUMAYA KOZO
〒730-0847
広島市中区舟入南4丁目8-14
TEL:(082)232-5200
FAX:(082)232-5199
今日はアメ車について書いてみます。
子どものころは、つまり一九五十年代のことですが
夢の車といえばメルセデスでもジャガーでもなくアメリカの自動車でした。
東京と関西の文化が日本の有史以来すごく違うのは確かで
その洗練度は京都大阪のほうに一日の長のあるのも事実です。
その関東と関西の違いで、重要なポイントなのにみんな見過ごしていることがある。
戦後の米軍の影響です。
首都ということもあり東京の周辺には米軍の基地が集中していたのです。
京阪神にはほとんどなかったのとは対照的。
鎌倉の大仏の参道には看板など今も米軍将兵を相手にしていた時代の名残があって
京都や奈良では考えられない。
京都や奈良は、たとえ米軍基地があっても
その影響を受けるような薄っぺらなところではないと言うならそうかもしれないが。
じつは今も鎌倉周辺は基地と米軍住宅地だらけです。
湘南の文化とは戦後米軍に影響された文化で、そのことに触れないではものごとの本質を忘れます。
そういうわけで所ジョージさんのような人が首都圏、とくに横浜の周辺には多い。
五十代六十代は米軍全盛の時代に子ども時代を過ごした世代ですから。
広島は西日本ですが、京阪神と違い米軍の多かったところです。今も米軍放送が聴けるくらいで(岩国放送)
日本でも数か所しかない地域の一つ。
わたしも米軍世代かもしれない。
十歳まで江田島に住んで、生まれた家の前に海軍兵学校が広がっていましたが
幼稚園に上がるころまで一都市のような兵学校全体が、米軍の司令部と住宅地になっていました。
1951年の生まれです。フィフティーズ(五十年代)のアメリカは
アメリカ人もイメージしてはにんまりするアメリカ全盛時代で
古代ローマの絶頂期以来というくらいの繁栄があったので
敗戦後それほどたっていない日本とは天と地のそれはものすごい格差だったんです。
その天国のアメリカが、わたしの家の前にあった。
島なので車は少なく、そのころの日本にはありえないボートやヨットの美艇がありました。
それでも車もあった。米軍基地がなくなったあとも(じつは現在も江田島には米軍基地がひっそりとあるのですが)
米軍将校の車の出入りはあった。
アメ車です。フルサイズ、テールフィンですよ
。
テールフィンと言ってもエアロパーツではなく単純にはったりの飛行機の垂直翼のようなのが
リア両サイドにそびえているのです。
車のボディは巨大でひらべったくてフロントとリアデッキが広大。
ようするにこれでもかというほど見えを追ったデザイン。
今から見ればばかげているが絶頂期アメリカのシンボルでした。
自動車文化のろくになかった日本の市民たちはそのアメ車に超々々あこがれた。
とくに日本の少年たちは。ひとつには当時のドルと円の為替格差で今の感覚では何千万もする価格と言うこともあって。
米軍将校らしい白人の運転するフルサイズのコシートに日本人の女が居て、うっとりとする表情をいまも忘れられない。
そのころの日本人にとって(とくに子どもにとっては)白人のアメリカ人はみんな王侯貴族で神様で
アメ車は彼らを運ぶ魔法の馬車だった。
時代はあっという間に変り、円が強くドルが弱くなりキャディラックの新車が
メルセデスなどよりずっと安く数百万で買えると知った三十年くらい前
変れば変るものだと驚いたことがあります。
岩国には今も米軍基地があるが、今ではアメリカ人も貴族でも神でもないから基地の外に昔の面影は有りません。
光市までの188号線は海に沿うすばらしい国道で、今も走っていちばん気持ちのよいところですが
往時は米軍将校や兵たちが車やバイクを飛ばしたところです。
光市のビーチ際にはその繁栄があって湘南でプチハワイでした。
今は市営の通津海浜公園も米軍専用でした。その通津公園の手前、すこし峠になったところには
米軍相手の店やレストランが並んで今の沖縄状態でした。
六十年代後半から七十年代、広島の若者たちはそこを目指して車を飛ばして行った。
路上のレースだったようです(わたしは話に聞いただけ)。
玖珂町の「山賊」の城とも寺院ともつかない豪壮な日本建築と庭の迫力がすごいでしょう。
あれも米軍将兵相手の雰囲気だったと思えば納得できます。
広島の若者たちはそれを目指して二号線を飛ばすことも有ったらしい。
広島から何十分で着くかを競ったのです。
わたしは群れて走ることはなかったが二十歳前後(七十年前後)
今思えばどこへ行くにも今こうして生きているのが不思議なくらい飛ばしていましたね。
車は親のブルーバード(510)か、付き合っていた彼女の家のスカイラインGL(箱スカ)です。
そんなころもあったのかと言う話です。
ジャンリュック・ゴダールの映画「気狂いピエロ」に六十年代の名車がぞろぞろ登場する話は書きましたが
フォードのテールフィンのコンバーチブルも出てきます。
ベルモンドとアンナ・カリーナがそれを盗んで倉橋島のような田舎道を逃避行するシーンの綺麗さは忘れられません。
ベルモンドはその車でわざと海に飛び込んで、テールフィンのコンバチが
ボートのようにしばらく浮かんでいる姿が印象的でした。
ミッドセンチュリー、フルサイズ、テールフィンのアメ車を九十年代にベトナムで見たことがあります。
椰子の木陰に数台あった。サイゴンに近い保養地のブンタウのビーチです。
アメリカがベトナム戦争に介入したのは六十年代からで、その車が入ったのはそのころだと思う。
それから三十年たち無残な姿でぼろぼろで、リアシートが取り払われ
広大なリアの空間に木のベンチが二列置かれてあった。
乗り合いタクシーもしくはトラック代わりに使われているようでした。
全盛時代のアメ車を垣間見ているわたしには不思議な光景でした。
テールフィンのアメ車は椰子の木陰に似合う。
わずか数十年、生きている間に自動車もいろんな変遷をたどったものです。
さらにこれから、わたしの生きている間におそらく電気自動車が主流になっているでしょうね。