WINCARS KURUMAYA KOZO くるま家Kozo 広島 舟入 輸入車 国産車 車検 メンテナンス 



WINCARS KURUMAYA KOZO
〒730-0847
広島市中区舟入南4丁目8-14
TEL:(082)232-5200
FAX:(082)232-5199 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Konaさんくるまよもやま話

 

 23.昭和三十年~四十年

 ぼくは先日六十の誕生日でしたから世に言う還暦ですが実感はありません。
若い人には意外に思われるかもしれないが、ぼくの中では二十歳ころから時間の感覚が止まっているのです。
ふりかえればいろんなことのあったのは事実ですが、どれも昔のことにはまったく思われない。

でもすこし書いてみます。

まずぼくのことではなく数年前に亡くなった叔父の話。

1945年八月六日は広島に居て旧制中学生で三菱の工場に動員されていたそうです。
江波でも観音でもなく己斐の方に疎開していた工場で爆心地からは離れていました。
戦後は能美島の実家で農業を手伝いながらぶらぶらしていたらしい。
村には今は廃業していますが全国ブランドだった清酒「関西美人」があり
その酒造所に不動のバタンコ(オート三輪)がころがっていた。
叔父がもって帰ってもいいかと蔵元に言うと構わないといわれて、家で飼っていた馬で引いて帰ったといいます。

叔父のそのまた叔父にせんべいやアメを作る商売をしていた人が居て
戦中は軍属として中国大陸で菓子を作りトラックを運転して運んだという。
その大叔父がバタンコを整備して動くようにしてくれたそうです。
ぼくの叔父がそのバタンコを日々乗りまわして遊んでいると、ある日、村の駐在に呼び止められ
「運転免許状というものが要るのを知っとるか」と言ったそうです。叔父は知っていましたが
知らないと言ってしらばくれると、「村の中で乗るのはいいが、村から出んように」と言ったという。
あるときまた駐在さんに呼び止められ、能美島の中心の「中村までちょっくら乗せて行ってくれんか」と頼まれたそう。
「村を出るなと言うたじゃないか」と叔父が言うと、「わしといっしょならええんじゃ」と言って
バタンコ飛ばしてふたりで出かけたそうです。

叔父は親に畑を売ってもらったお金で広島にできたばかりの平和公園のそばで旅館を始めましたが
それより前、つなぎにタクシーの運転手をしていた時期もあります。
それも無免許のままでしていたというので驚きなのですが。

それをやめるときにタクシー会社に古い車をもらい、それで大阪まで行ったそうです。
昭和二十年代後半のそのころは世界一周のような冒険に思われたでしょうね。
二号線も未舗装一車線のところが多くあったといいます。
岡山県のそんな道で長い上り坂を走っていたら、途中で息切れして動かなくなったそうです。
途方に暮れていたらトラックが通りかかり、引っ張り上げてくれたという。

叔父が旅館を始めた動機は聞いていませんが、叔父の叔母(ぼくの祖母の姉)で神戸の芦屋で料亭をしていた人が
居たことと無関係ではないかもしれない。
旅館業で成功した叔父は神戸に土地を買いましたが、わらしべ長者のように入手しては手放すと倍増し
そのうちに資産家になっていました。

昭和四十年ころ、その叔父が神戸で乗っていた車はトヨタのコロナGT、ダルマのセリカなどでした。
コロナはマッチ箱のごとく、セリカは空飛ぶ円盤のような形で対照的ですが、
トヨタの意気軒昂な時代でした。今は北野異人館街の山本通りに住んでいましたが(今のような観光地ではありませんでした)
叔父は百メートル先に行くのも必ず車で、電車やバスには一度も乗ったことがないと言っていました。

叔父の妹で、ぼくの叔母ですが大阪の豆腐屋に嫁いだのが居て、JR環状線玉造駅前の商店街にある豆腐屋でした。
叔母夫婦はよく広島に帰り、昭和四十年代は二号線を車を飛ばして来ましたが
三十年代はさすがに汽車で、広島に帰ってどこからか車を借りていた。
プロの運転手以外には車の免許を持つ人が珍しかった時代です。

ぼくが五、六歳のころで、昭和三十二、三年ですが、大阪の叔父がニッサンが作っていたオースチンを借りてきて
親族で岩国の錦帯橋までドライブに行くことになった。
そのころ広島から岩国までのドライブは大旅行です。
記念写真が残っているので分かるのですが、大人五人と子ども五人が乗って行きました。
大人のひざに乗れそうな子は二人だけなので全員どうやって乗ったのか不思議です。

今も昨日のことのように覚えているのは広島を出ようとしたところで叔父がブレーキが利かないといって大騒ぎになったこと。
ガソリンスタンドで見てもらったらブレーキフルードが抜けていました。
修理して大竹の今の三菱レーヨンの前まで来ると、舗装の道路工事をしていて交互一方通行になっていました。
そこでまたとつぜんエンストして動かなくなりました。工事中で脇に寄せることもできず
上下線ともふさいで長い車の列ができましたが、ほぼすべてトラックでした。
その運転手たちが寄ってたかってエンジンを見てくれました。
ディストリビュータなどあちこちいじっているとエンジンは生き返り
錦帯橋に着いて何事もなかったかのような記念写真が残っています。

まあそれだけの話ですが、この五十年の間にはバタンコで中国山地の辺境の林道にしょっちゅう行っていた話
小型のバスをぼくの父が運転してぼくの親の経営する工場で雇用していたおばさんたちを
山奥まで送迎していた話、そんなことにまつわるいろいろ、昔の車の話には数限りないトラブルが付きまとう。
今の車は電子制御で故障しないのが当たり前のようになっていますが
なんでも機械式だったむかしは壊れるのが当たり前だったんですね。
人も車も通らない山道で故障することもあるので修理できなければ運転できませんでした。



次へ